「善の研究」~自己実現を果たすには?~
「善」とは何か?
西田幾多郎いわく、
「善」とは一言にていえば「人格の実現」である。
ここでいう「人格」とは、本来の “人” として在るべき姿のこと。
その人格を実現するためには、自己を深めていかねばならない。
自己を深めて(深く掘って)いくと、それだけ自分が他者に開かれていく。
私たちの心の深いところでは、元々他者とつながっているのだ。
ユング心理学でいう「普遍的無意識(※)」である。
- 人々の集合(民族・集団・人類など)が “共通” して持っている無意識のこと。
その他者とつながった普遍的無意識を開花させることが
「人格の実現」すなわち「善」である。
私と他者は不可分(分けることができない)、
つまり、私も他者も自己なのだ。
私たち自身は宇宙の一部。今、自分がいるココは宇宙。
宇宙=無限、その無限と一つになることが「善」。
「善」とは、人が本来持つ無限の可能性に “目覚める” こと。
「善」=「自己実現」と言い換えることもできるだろう。
善く生きる(自己実現を果たす)ためには?
自己=私(自分)+他者
とするならば、“自己実現を果たす” というのは、
自分という枠を超えることだ。
本当に大事なのは、自分のことではない。
私が他者に一致することなのである。
そのとき「愛」が働く。
「愛」とは、自分の事のみならず
「他者の事を我が事としてとらえる」こと。
そうした「愛」が働くことで、人は相手・他者に対して
何らかの行為によって「体現」したくなる。
相手(他者)が苦しんでいたら、自分も苦しくなって、
その苦しみを一緒に取り除こうとする。
相手(他者)が喜ぶことが、自らの喜びになる。
相手(他者)を楽しませることが、何よりも自分の楽しみになるのだ!
私と相手(他者)が一つになる → それこそが「善」。
その「善」なる生き方こそが、自己実現を果たす。
つまり自己実現とは、
他者のことを我が事ととらえ、自分の可能性を開花させて
「他者に貢献」することによって果たされるものなのである!
自己実現は、作っていく(築き上げていく)ものではない。
「私」を手放して、目覚めさせていくものなのである!
真の自己に目覚める(自分の可能性を開花させる)には?
西田幾多郎は、人として “生きる最善の道” について、
次のように示している。
真の自己を知り神と合する法は、
ただ主客合一の力を自得するにあるのみである、と。
「主客合一」とは、自分と対象(他者)が一つになった状態のこと。
その境地に到るためには、
対象に飛び込み「没入せよ!」、
裸の眼で(色眼鏡をかけずに)「物事をじかに見よ!」
と説いた。
「じかに見る」・・・西田哲学でいう「純粋経験(※)」である。
- 主観・客観が区別される以前の直接に与えられた経験のこと。
この純粋経験をしたとき、人は “もの” そのものになり、
真の意味で “もの” を見、 “もの” を知ることができる → 主客合一
純粋経験という概念は難解だけど、要は、
対象(人間関係・仕事・趣味・家事etc)に飛び込んで
“没入・没頭” し(私を手放し)、その対象をじかに感じ取ることで、
主客合一の純粋経験(に近い感覚)が会得できるのではないかと思う。
そう、目の前の一つ一つ(対象)に丁寧に向き合おう!
すべてを “我が事” と感じよう!
なにも、特別な体験をせずとも、そうやって日常生活に没頭しながら、
その価値を再認識していくことで、
自分の可能性を最大限に目覚めさせることができるのだ。
※「純粋経験」についての補足
純粋経験(じかに見ること)を妨げる「色眼鏡」とは?
- 思想・主義、価値観
- 嗜好(好き嫌い) ex.嫌いな人がとても大事なことを言ってる場合だってある
- 経験、知識 ex.「そんなこと知ってるよ」
- 思慮分別
- 常識、思い込み
- 執着、こだわり
...などなど
これらの「色眼鏡」をかけていない状態で物事を見る → 純粋経験
この記事は、西田幾多郎の『善の研究』などから学んだことを、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。
個人的な解釈も入っているので、そのまま鵜呑みにはしないように(笑)。
そもそも人に読んでもらうために書いたものじゃないですし(汗;)
もし、「この考え方、面白いなぁ」と感じるような内容があれば、
あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...