「他力本願」とは? ~法然・親鸞の教え~
日本が、かつてないほど大きな社会変動に直面した、鎌倉時代初期。
宗教界(とりわけ仏教界)にも革命の嵐が吹き荒れていました。
その頃の日本の仏教は、貴族や知識階級による独占物でした。
特権階級との癒着が強まる一方の仏教界にあって、
仏教とは、すべての “苦” を克服する教えではなかったのか!
一番苦しんでいる “民衆” を救わずして、何が仏教か!
と、立ち上がった改革派の旗手が、(浄土宗の開祖)法然だったのです。
“法然の教え” の基本
元々、仏教の主流は、修行や学問によって煩悩をなくし、
悟りを開く、という「自力」型でした。
“出家” して世間と離れたところで、
毎日毎日厳しい修行をし、難しい経典を読み込む...
これは「難行」です。誰にでもできるものじゃありません。
法然は、この難行に疑問を抱きました。
そこで注目したのが、中国・唐の高僧が伝えた、
阿弥陀仏の名を唱えることで、誰もが救われるという教え。
- 厳しい修行ができない凡人は、阿弥陀仏の名を唱えなさい。
そうすれば誰でも浄土(仏の世界)に行けますよ」というもの。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...この念仏を唱えるだけ。
難行ではない、誰にでもできる「易行」。
しかも自分が悟りを開くのではなく、阿弥陀様がお救いくださる。
だから、自力じゃなくて「他力」。
これなら、どんな人でも救われる!
こうして仏教に革命を起こした「法然」。
その教えに出会い、深く共感したのが「親鸞」で、
法然の思想を受け継いでいったのです。
念仏とは?
ちなみに、「阿弥陀仏」とは、
大乗仏教において代表的な、「衆生を救おう!」と誓いを立てた仏です。
「限りない命と限りない光のはたらき」というような意味を持つ、
いわば “衆生救済の象徴” です。
そして「南無」とは、「おまかせします」という意味。
つまり、念仏=仏の名を唱える「南無阿弥陀仏」とは、
この世界に充ち満ちる “限りない光” と “限りない命” の
はたらきにおまかせします
という意味で、自分が「生きる姿勢」を込めた言葉だといえます。
「他力本願」の本当の意味
法然&親鸞の教え・思想の根幹には、
「他力本願」という重要なキーワードがあります。
現代では、自分で努力しないで他人まかせにする、
というような使われ方をしますが、本来の意味は違います。
まず、他力とは、
自らの力によらないで、仏・菩薩の力によって救われること。
そして、本願とは、
仏や菩薩が修行中に「衆生の救済を願って立てた誓い」のこと。
つまり「他力本願」とは、
仏・菩薩の「本願(衆生救済を願って立てた誓い)の力」によって
救済されること
というのが、本来の意味になります。
悪人こそが救われる?
親鸞は、師匠の法然による「他力本願」の思想を深く体得し、
受け継ぎ、さらに “昇華” させていきました。
その親鸞の思想の中で、特に有名なのが、
「悪人こそが救われる」という “悪人正機説” 。
親鸞は、「善人はもちろん、悪人でさえ救われるよ」とは考えず、
逆に「善人よりも、悪人こそが救われるのだ」と、論理を逆転させたのです。
これはいったいどういうことなのか?
仏教における「善人」とは、
自分で修行して、煩悩を消し去り、悟りを開ける人のこと。
もし、その本当の「善人」、つまり「仏」の境地に到達できれば、
自ずと悟りを開いて、いかなる苦しみも克服できるでしょう。
問題なのは、自分は善人だと思ってて、
自力で物事が解決できると思い込んでいる人。
これがNG(×)なのです。
逆に、
- 俺は煩悩から逃れられない、愚かで弱くて無力な人間だ」
- 人生は思い通りにならないことばかり...」
- 自力ですべてを解決する事なんて、到底できっこないよ」
と、自力で悟りを開けないことがわかっている人が「悪人」。
(その意味での)悪人こそが救われるのだ!
なぜなら、自らの “悪や愚かさ” を自覚している人こそが、
“愚直に” 阿弥陀仏の本願におまかせ(南無阿弥陀仏)することができるから。
“悪人正機説” は、さまざまな捉え方ができると思いますが、
- 仏の目からみれば、すべての人は悪人であるのに、
自分は善人だと思い込んでいるのは、傲慢なんじゃないの!?」
という、親鸞によるアンチテーゼ。
この解釈が(個人的には)しっくりきます。
人間は不完全な存在
人生は、たとえて言うなら、底に穴のあいた船に乗っているようなもの。
水をかい出すのをやめるわけにもいかず、
しかしいくらかい出しても、煩悩が尽きるわけではない。
人間は、はからい(分別)を捨てることができない以上、
迷い(無明)の世界から逃れることはできないのでしょう。
だとすれば、思い通りにならない現実に “抗わず” 、
そのまま受け止めて生きていくしかありません。
- あの人を喜ばせたい!、社会のお役に立ちたい!」
と、どんなに強い思いを持って、慈悲を施そうとしても、
他者(他人や社会)を “完全” に助けることはできません。
また、何かをきっかけに悪や過ちを犯してしまうかもしれない。
人間は、何をしでかすかわからない存在なのです。
自分自身の能力(知性・理性・感性)も、不完全です。
なぜなら、“自分の都合の良い解釈” に彩られているから。
そのことを本当に、徹底的に自覚できたとき、
- この世界に充ち満ちる、限りない光と命のはたらきにおまかせします」
という「他力」への扉が、自然に開かれます。
「他力」は無敵
人間という悪人(愚者)にとって、
「信じる」という姿勢こそが、生きる術(すべ)。
「信じる」ことは、人間のあらゆる営みのなかで
最も強いエネルギーを持つ、根源的な力です。
他力への「信心」、すなわち「信じさせていただく心」を純粋に抱いて、
仏(人智を超えた偉大なる存在)とひとつになることで、
人間にとって究極の英知=「無分別智(※)」を体現できるのです。
- 分別を超えた、絶対的な真理をとらえる智慧
「自力」“のみ” を信じると必ず、解決できない問題に突き当たります。
一方、他力(限りない光と命のはたらき)を信じ、
そこに ひたすらわが身をゆだねて生きることができれば、
解決する “問題自体が存在しなくなる” でしょう。
なぜなら、何が起きても、自力で解決しようとしないから(笑)。
他者に「助けてください!」と、救いを求めることができるから。
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マジで、これができないから、わざわざ人は苦しむのだ。
そうした意味で、「他力」は “無敵の境地” だといえるのです...
この記事は、法然・親鸞の教えについて、
『歎異抄』や『東洋の哲人たち』などから学んだことを、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。
個人的な解釈も入っているので、そのまま鵜呑みにはしないように(笑)。
そもそも人に読んでもらうために書いたものじゃないですし(汗;)
もし、「この他力の思想、興味深いなぁ」と思われたなら、ひとまず、
あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...