思想・パラダイムの引き出し

古今東西の思想・哲学・宗教など(教え、ものの見方・考え方)から学んだことを、 自分用に要約して記録した覚書き(忘備録)集。

実存主義とは何か?~サルトルの思想~

第二次世界大戦という未曾有の経験によって、
既存の価値観が大きくゆらいでいたヨーロッパ。

人々は、頼るべき拠り所を失い、「根源的な不安」に直面していた。

意味や必然性を剥ぎ取られ、不条理にさらされたとき、
人は、一体どう生きていったらよいのか?

フランスの哲学者サルトルは、

その「根源的な不安」に向き合い乗り越えるために
実存主義」という新たな思想を立ち上げた。

「実存」とは、

実際にこの世に存在すること、今ここに” 現実に存在すること。

その実存、特に「人間の実存」を重視する考え方が、「実存主義」である。

実存主義の基本テーゼ

1945年、パリのあるクラブで講演が行われた。

題して「実存主義とはヒューマニズムか?」

サルトルは、その歴史的な講演の中で、
実存は本質に先立つ」という基本テーゼ(※)を示した。
※肯定的な主張

  • 人間の本質はあらかじめ決められておらず
    実存(現実に存在すること)が先行した存在である。

    だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、
    自分自身で意味を生み出さなければならない

  • 「本質」とは?

    例えば、ペーパーナイフを作る場合、

    紙を切るもの

    という「本質」が先にあって作ることになる。

    つまり、ここでいう本質とは
    その物の持っている “本来の独自の性質” のことである。

    「それは何ですか?」と聞かれた時に説明する “概念” 

    といってもいい。

    • 椅子とは何ですか?・・・人が座るもの  本質

      椅子の実存は、椅子そのもの

実存は本質に先立つ

しかし人間の場合は、

ペーパーナイフのように、あらかじめ “紙を切るもの” というような
本質(=本来の独自の性質)が決まっているわけではなく、

本質を自らが選び取る存在なのだと、サルトルは考えた。

  • 実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。

    それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、
    世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだと
    いうことを意味するのである。(中略)

    人間はあとになってはじめて人間になるのであり、
    人間はみずからがつくったところのものになるのである。

つまり、

人間には、本性・本質など元々ない
その本性を考える神が存在しないから。

人間は、自らの決断によって、主体的に自らの本質を選び取ったうえで
人生を、未来を、創り上げていかなくてはならない

それが、サルトルが宣言した “人間観” だった。

自由の刑

人間には、本性・本質など元々ない
人生や世界にも、そもそも意味なんてない

(裏を返せば)人間は根源的に「自由」なのだ。

だがそれは同時に、人間に大きな不安を与えるものでもある。
自分自身があらゆる行動の意味を決めなければならないからだ。

人間は元々何ものでもない

だから人間は自由だ

だがすべて自分で決めなきゃいけない

そこには責任、不安、孤独が伴う

その状況をサルトルは、

我々は自由の刑に処せられている

と表現した。

人間は自由な存在であるがゆえに、
孤独や不安から逃れることはできない

であるならば、その「自由の刑」という呪いを背負いながらも
そこから目を背けずに自ら決断して主体的に生きていくべきだ!

サルトルは、主張する。

失敗した際の「責任」も、自らが引き受けよう、と。

さらに自由には受難が...

さらに、人間の根源的な「自由」の前には、

逃れようのない “大きな壁” が立ちはだかる。

それは・・・「他者」である。

決して完全には理解し合えず相克(※)する「他者」との関係。

  • 対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと

だが人間は、その「他者」なしには生きていけない。
「他者」と相克しながらも共生していかなければならないのだ。

そうした状況をサルトルは、こんな言葉で表現した。

地獄とは他人のことだ

またサルトルは、他者との関係について、こんなふうにも考察している。

  • 私は今、鍵穴からこっそり中を覗いています。
    我を忘れて部屋の中を見ているのです。

    その時私は、世界に対して関係しています。

    しかし、私に対して誰かがまなざしを向けていることに気づいた時、
    その瞬間、私は “見られているもの” に変化する。

    私は世界に関係する存在から、
    他人に関係される存在に転落してしまうのです。

    そこにいるのは、他人のまなざしに決められた私。

    つまり私の世界を他人に盗まれた私です。

他人からまなざしを向けられると、
自分が自分のものではなく、他人のものになってしまう。
自分の評価が委ねられてしまう。

サルトルはこの他人から向けられるまなざしを、
自由の受難」と呼び、それは避けようのない「人間の条件」だと考えた。

対人関係とは、見るか見られるかのまなざしの相克」だった!

社会にコミットせよ(アンガジュマン)

人間に与えられている根源的な「自由」。

そこには、「不安」や「孤独」「責任」、
そして「他者(まなざし)との相克」という受難(地獄)が伴う...

では、そうした “” ごと受け容れつつ
人生に “” を照らすには、一体どうすればいいのだろうか?

そこでサルトル(たぶん相克しまくって ^^)
止揚(高次元へと統一)したのが、「アンガジュマン」という思想である。

アンガジュマンとは、

自分を拘束すること、自分を巻き込むこと、自分を参加させること

という意味で、

人間は積極的に “状況” へと自らを “投企(※)” していくべきだ、
という考え方。

  • 企てに向かって将来に向かって、自分の身を投げること

つまり、

自分が信じる何らかの社会活動やコミュニティなど
積極的に関わって、そこに身を投じるべし!

社会にコミット(※)することこそが、自由を最も活かす方法なんだよ!

  • 積極的に関わって、そこに身を任せて貢献すること。

ということである。

サルトル実存主義の真髄

他者との関係は地獄」と悲観しつつも、

社会に参加(コミット)しよう!」と提唱し、

戦後は特に、「言論に関わる人間は責任を取らなきゃいけない」と、
強い態度を表明し、闘う知識人” として時代の寵児となったサルトル

晩年、「いま希望とは」と題された “最後の対話” で、
サルトルは次のような言葉を語っている。

  • 世界は醜く、不正で、希望がないように見える。

    といったことが、こうした世界の中で死のうとしている
    老人の静かな絶望だ。

    だがまさしく、私はこれに抵抗し、
    (自分ではわかっているのだが)希望の中で死んでいく。

    ただ、この希望、これを作り出さねばならない。

身を持って「アンガジュマン」を実践し続け、

絶望的な世界の状況にあっても、最期まで

  • 自分が死んでも、残る人たちの手で希望を作り出してほしい」

と願ったサルトル

まさに、社会にコミット(投企)することで、
自らの思想を自らの “生き様” で魅せ続けた、偉大なる哲人だった。

これこそが、人間存在の在り方” を相克し続けた
サルトル実存主義の真髄だったのではないだろうか...

 

この記事は、『実存主義とは何かなどサルトルの思想から学んだことを、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。

もし、「この考え方、興味深いなぁ」と感じるような内容があれば、

あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...