「老子」が説く「道」
道(タオ)
人はいかに生きるべきか?
老子は、その答えをひと言に集約して
「道(タオ)」に従って生きよ
と説いた。
その、道(タオ)とは何か?
言葉で言い表すことのできる「道」は真の「道」ではない、
と言われるように、そもそも「道(タオ)」とは
分別(言葉)を超えた概念なのだけど...
あえて言語化すると、
- 天地や宇宙を生み出す根源
- 万物創生のエネルギー
- 自然界の法則:自(おの)ずからなる営み
これらをひっくるめた、万物のすべてを支配する根元的な働き、
とでも言おうか。とにかく、宇宙全体を見渡しているような
最も抽象度の高い(全てを超越した)概念である。
要は、人の営みや自然現象は「道」が司っているので、
その「道」に “素直に” 従って生きるのが、
本来の人間の在り方(正しい存在の仕方)なのだと、老子は考えた。
無為自然
では、「道」に従うとはどういう生き方なのか?
その基本スタンス(立ち位置、ありよう)が
「無為自然」という思想である。
無為自然とは、「なんら作為をせず、あるがままの状態」であること。
(赤ちゃんのような状態、虚=カラッポ)
つまり、意図や意思・主観をすべて捨て去って、
本来のありのままの自分でいることが、
「道」に身を任せて生きる基本スタンスだと、老子は説いている。
もっと噛み砕いて言うなら、
「何かをしようとしなくても、物事は勝手に起こるよ」
「行動や思考が自然にわき出るままに任せなさい」
「すべてを起こるに任せて、自然に “抗わずに” 生きよう」
- 例えば、日常、仕事や家事など “目の前のやるべきこと” に向き合って、
自然に(流れのままに)取り組んでいけば、やがて思わぬ発見があったり、
色んなご縁が生まれたりして、物事は自ずと動いていくよ♪
というような意味になるかと思う。
上善は水のごとし
その「無為」の在り方の理想を、老子は “水” に例えた。
-
徳のある人の生き方はまるで水のようである。
水は万物を育て養う。そして柔らかくしなやかだ。
いつも自然に寄り添い、争うこともなければいばることもない。
水はいつも低いところへ流れていく。徳のある人も人々の下に甘んずる。
水はたえず万物に施(ほどこ)し、その見返りを求めない。
水は万物をありのままに映し、うそいつわりがない。
人間も水のように生きることができて初めて「道」に近づくことができる。
これを「上善は水のごとし」と言う。
水は、どんな形にも姿を変えることができるし、
どんな隙間にも入っていくことができる。
時には、金属や岩のような頑丈で重いものを動かすことだってある。
水は柔らかくて弱いんだけど、
その弱さに徹底しているからこそ強いのである。
水を含めて大自然は、あらゆる物に恵みを与えている。
決して力をひけらかすこともなく、見返りを求めることもなく。
人も大自然と同じように生きるのだ。
自分を大きく見せよう、良く見せよう、なんてしなくていい。
-
足ることを知れば辱められず
止まるを知らばあやうからず
よって長久なるべし
-『老子』第44章-
自分らしい “分相応” の暮らしに満足して、
感謝しながら生きれば、天寿をまっとうできる。
分不相応に欲望を増大させていくと、身を滅ぼしてしまうよ。
自然には幸不幸はない。幸不幸は人の主観によるもの。
そんな感情に惑わされず無為自然に、水のごとくしなやかに生きよう!
私たちの存在は小さいけれども、「道」を通して宇宙につながっている。
いつも母なる「道」に見守られているのだ。
無理をせず、この無限大の “尊い支え” に身を任せればいい。
カッコ悪くてもいいから、みっともなくてもいいから、
とにかく生きよう...
この記事は、『老子』の教えから学んだことを、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。
個人的な解釈も入っているので、そのまま鵜呑みにはしないように(笑)。
そもそも人に読んでもらうために書いたものじゃないですし(汗;)
もし、「この考え方、面白いなぁ」と感じるような内容があれば、
あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...