思想・パラダイムの引き出し

古今東西の思想・哲学・宗教など(教え、ものの見方・考え方)から学んだことを、 自分用に要約して記録した覚書き(忘備録)集。

ニーチェから学ぶ「最強の生き方」

19世紀後半のヨーロッパ。

科学技術の進歩は留まることを知らず、大きな変化を遂げる一方で、
それまで人々を支えてきたキリスト教は、窮地に立たされていた。

科学的(合理的)に説明ができない “” に対する信仰は薄れ
その “絶対的な価値” が失われようとしていたのである。

そんな激動の時代に、

  • 神は死んだ※05...我々が神を殺したのだ」

と言い放つ、トンデモ哲学者があらわれた。

ドイツ生まれの「反逆の哲学者ニーチェである。

反逆の哲学

ニーチェの思想を学ぶにあたって、
まず理解しておかなければならない “大前提” がある。

それは、「実存主義※02」という思想である。

「実存」とは、実際に “見たり触れたりできる” 現実の存在」のこと。

その “現実の存在” を中心に考える思想、つまり、

  • 見たり触れたりできない
     “意味” とか “本質” にこだわるのはナンセンス!」
  • 見たり触れたりできない “”  “道徳” を崇拝するのもやめようぜ!」

それよりも、

  • 見たり触れたりできる
    現実の存在(実存) “だけ” に目を向けようよ」

という考え方である。

人生にも世界にも意味はない

人間も「現実の存在(実存)」である、という前提で考えると、

人間の存在には、意味とか目的はなく
ただ世界に放り出された、
まるで石ころのように「そこにあるだけ」の存在なのだ。

その石ころが集まって形成された社会や世界にも
当然、意味も目的も、価値(善悪や正邪や優劣など)も存在しない

この実存主義の立場をとる「実存哲学」は、

それまで “王道” であった「本質哲学」に対して、
真っ向から「NO!」を突きつけたのである。

  • 人生にもこの世界にも、意味なんてねぇよ!」と。

ニーチェは、その新しい哲学の流れを生み出した “先駆者 だった。

この世に在るのは “解釈” だけ

それにしても、

  • すべてに、意味も目的も価値も無い!って、
    身もフタもない考え方だなぁ (^^;)...」

確かに、ランボーな印象を受けるけど、
ニーチェによる次の警句を知ると、納得できる気もする。

  • 世の中に客観的な事実なんて存在しない! 
    存在するのは、一人ひとりの解釈だけである」

例えば、「心穏やかに過ごせることが “幸せ” だ」・・・ これって事実?

  • そう、平和で穏やかで、何の不満もなく過ごせることが幸せさ」
  • ん~でも、それだけじゃ退屈で物足りないなぁ。
    困難を乗り越えて夢を果たす、その過程こそが幸せなのだ」
  • いや、自分だけじゃなく、他者に喜んでもらうことが幸せだと思う」

...等々、

何に幸せを感じるかは、人によって、また状況によっても異なるだろう。

私たちは、あらゆる物事を、自分の立場や価値観によって
「こういうものだ」という「解釈(意味付けラベル付け)」をして
とらえているにすぎない。

逆に言えば、最初から「こういうものだ」と、
意味付けが固定された物事(事実)なんて、世界には存在しないのである。

世界は虚無

そう、あらゆる物事(認識の対象)には、
人間による “勝手な解釈(意味付け)” が付加されているだけ

そんな “かりそめの空想” に価値(絶対的な性質)などない。

価値がないことに意味を求めるなんて、実にくだらない。

価値がない=(イコール)無意味」なのである。

そうやって、絶対性や価値をことごとく否定し、
虚無を見いだそうとする思想・態度のことを
ニヒリズム※03」(虚無主義)という。

実存主義(哲学)を “徹底的に” 貫くと、
自分が信じている常識がすべて打ち砕かれてニヒリズムに陥り、
絶望」に至るのだ。

「神は死んだ」発言の真意

以上のような、ニーチェ哲学の基本的な考え方を踏まえたうえで、
神は死んだ※05」発言の謎を紐解いていこう。

その過激発言の、真の意味(解釈)とは?

ニーチェは、こんなふうに考えた(解釈した)。

  • 神とは、弱者のルサンチマン※07がつくり出したものにすぎない
  • ルサンチマンとは、「恨み」とか「嫉妬」という意味。

「神という概念」や「神への信仰」は、

人間の崇高な意志から生まれたのではない。
むしろ「弱者の恨み」という
歪んでねじ曲がった負の感情」から生み出されたのだ!

そのうえで、こんなことまで言っている。

  • 神への信仰(弱者の恨みが生み出した歪んだ負の感情)が、
    人間本来の “” を押し殺してしまっている
    」と。

これはいったい、どういう意味(解釈)なのだろうか?

「善い人」とは?

もともと古代においては、「善いこと」とは、
強いこと」や「力があること」だったらしい。

(その価値観が常識だったとするなら)
古代において「善い人間とはどんな人か?」と問えば、

  • 若々しく、健康で、財力があり、闘争にも長けた強い人間だ」

と誰もが答えたであろう。

  • ん~、そうなのかなぁ?」

その答えには、たぶん現代人の多くが首をかしげるに違いない。

だけど、できるだけ先入観を取っ払って、よくよく考えてみると...、
それはとても “素直で自然な価値観” のような気もする。

価値観の逆転

その、たぶん本来人間が持っていたであろう “自然な価値観” が、
同じ神を信じる、ユダヤ教キリスト教によって、逆転した。

強いことは素晴らしい!」というまっとうな価値観が、
いつの間にか「弱いことは素晴らしい」という価値観に
すりかわってしまったのである。

神を信じる者たちは、弱者であることを恥じることもなく
他者からどんなにひどい仕打ちを受けても、怒らずニコニコと振る舞う人を
「善い人間」だと思うようになってしまった。

そんな生き方が、人間本来の「生」であるはずがない!

この不自然な価値観は、キリスト教を通じ、1千年以上もの時間をかけて
ゆっくりと人類を洗脳し、今やすっかり常識になっている。

例えば、誰かが「金と権力が欲しいっ!」と言っているのを聞いて、
どう感じるだろうか?

もし悪い印象を持つとしたら、キリスト教的な価値観に洗脳されている証拠だ。

だが、この “金や権力” を肯定する価値観についても、
よくよく考えてみると...

その発言に違和感を感じることこそが、問題なのではないだろうか?

弱者救済システム

(余計な先入観を取っ払って、考えてみると)
金と権力は、明らかに “生を充実” させる要素である。

にもかかわらず、な~んか嫌な感じを抱くのは、

「金と権力」を得た強者(勝者)に
「金と権力」を得られない弱者(敗者)が、嫉妬しているからである。

弱者は、負けを認めたくないので、
「金や権力を得たからって幸せにはなれないよ」などと
 “負け惜しみ” を言う。

本当は自分も、金と権力が欲しいのに。勝者になりたいくせに

なのに努力して勝ち取ろうとはせずに、勝者に対して恨みを晴らそうとする。
「金や権力がないことは善いことだ」などと、価値を歪めてしまうのだ。

これが、弱者が強者に対して持つルサンチマン(恨み・嫉妬)である。

この、歪んだ価値観を善とし、弱者を救済するシステム

それこそが、信仰や道徳の正体である!、とニーチェは喝破したのである。

神が死んだ後、どう生きる?

ただ、ニーチェは単に、

「神さまや信仰の正体を暴いてやったぜ、ヘヘ」と、
宗教批判をしただけではない。

  • さぁ、もうすぐ、神や道徳が
    絶対的な価値観にならない時代がやってくるぞ!」

と予言したうえで、

  • そんな神が死んだ世界で、人間はどうやって生きていけばいいのか?」

という、新たな「生の価値」について哲学をしていた。

しかも、「永遠回帰※08」という、永遠に同じことが繰り返される
究極・最悪のニヒリズム(虚無)の世界」まで想定したうえで、

  • そんな超・絶望的な世界が訪れようとも
    前向きに生きていける哲学を、私が創り出すのだ!」と。

ニーチェはその答えとして、「超人思想※09」という独自の哲学を展開する。

力への意志

もともとニーチェは、

  • 宗教的な道徳観念が、人間のまっすぐな欲望を押し殺している

と主張していた。

その「まっすぐな欲望」とはいったい何なのだろうか

ニーチェは、人間本来の根源的な欲望とは、
力への意志※12」であると考えた。

力への意志」とは、

「もっと “強く” 」「もっと “大きく” 」「もっと “豊か” に」・・・

と、自己を無限に拡大させようとする “能動的な欲求” のこと。

「~したい!」と純粋に欲する、
生を動かす” 勢いのようなもの、といってもいいかもしれない。

人間に限らず、すべての生き物(組織や社会も含む)は、
この「力への意志」という “生の働き” を持っていると、ニーチェはいう。

  • 力への意志は、あらゆる存在に宿るので、宇宙が拡大し続けているのも
    力への意志」によるものと考えていいと思う。
    だとすれば「力への意志」=「宇宙の能動性」とでも表現するほうが、
    意味合いとしてはシックリくる。

「超人」とは?

権力、財力、腕力...など、結局のところ、
人間が求めているものは「力」である。

その力への意志」の赴くまま、強くなることを目指す者のことを、
ニーチェは「超人※09」と呼んだ。

超人とは、

  • 他者(社会や他人)から押しつけられた価値観・常識を捨て去り、
    ニヒリズム(絶望)をまるごと受け入れ
  • そのうえで、強く、大きく、豊か” になりたいという意志を
    しっかり自覚し、それから目を背けない
  • たとえ、同じ人生が永遠に繰り返されようとも、
    よし!この人生をもう一度味わいたい!」と心から思える

そんな “生き方” ができる人間(既成の人間を超えた存在)である。

既成の人間を超えた存在「超人」

超人は、どんな障害があろうと、ただひたすら
心にわきあがる「強く、大きく、豊かになりたい」という
力への意志※12」にしたがって、生命を燃やし続ける。

末人(まつじん)

ニーチェは、神が死んだ(すべての価値観が崩壊した)世界には、
「末人※04」と呼ばれる人たちが増えていくだろう、と予言した。

末人とは、なんの目標もなく、トラブルを避けて、
ひたすら時間を潰すだけの人生を送る人間
、のこと。

現代に生きる私たちにも、当てはまる部分があるのではないだろうか。

人生において、成し遂げる目標もなく、苦痛を感じても耐え忍び、
リスクは避けて、何事も起こらないよう一生が流れ去ってほしい...

こういった、(たぶん)多くの現代人たちの生き方が、
ニーチェが予言した「末人」たちの生き方と、見事なほどに合致する。

「生き方」こそが重要

ニーチェは、そんな「末人」の不毛な人生を乗り越えるための方策として、
「超人思想※09」という哲学を提案したのである。

実際に、超人になれるかどうかよりも、

  •  “強く、大きく、豊か” になりたい!」
  • 他者(他人や社会)から押し付けられた価値ではなく
    本当の(自分独自の)価値を築きたい!」

という、人間本来の “根源的な熱い気持ち” を自覚し、
それに目を背けずに、

  • 今、この瞬間を力強く肯定して生きていこう!」とする “生き方” 

その超人的な “生き方” こそが、末人を乗り越えるために必要なのだ。

隣人愛よりも自己愛

ニーチェの思想は、「生を “全肯定” する」哲学である。

たとえ超・絶望的な世界が訪れようとも喜びを感じられる人生。

そんな「生の高揚(人生の充実感)」を得るために、
ニーチェは、「自分の人生を愛する」ことが重要だと考えた。

キリスト教は、自分と同じように他人を愛せよ
という「隣人愛」を説いたが、ニーチェは、

  • 自分の人生に満足していない人が、他者を愛そうなんて
    ちゃんちゃらおかしい!」と(言ったかどうかは知らないが 笑)

隣人愛よりも “自己愛” を重んじた。

自分を本当に愛せる者こそが、他者を愛せる(大切にできる)

という意味で。

自分の人生を愛するには?

ただ、そうは言っても...

「ろくでもない人生」「いばらの道だらけの人生」
「時間をドブに捨ててきたような人生」「過ちだらけの愚かな人生」
「不運ばかりで何も良いことがなかった人生」...

そんな私の人生をどう愛すればいいのよ!

という疑問(ツッコミ)に対して、ニーチェ

  • 喜びや成功だけでなく、失敗も挫折も悲しみもぜ~んぶ含めて
    自分の人生のすべてを受け入れよ!」

と説いた。

このニーチェの「運命愛※10」という思想を “受け入れる” と、
自分の人生が俄然 “面白いドラマ” (エンターテインメント)になる。

だって、人間ドラマは

愛も憎しみも、喜びも悲しみも、幸せも不幸も、光も闇も、美も醜悪も、
正義も不正も、善も悪も、成功も挫折も、希望も絶望も、平凡も非凡も...

人間の身に起きる “あらゆる要素” が描かれている物語こそ
ワクワクするほど面白いじゃないですか!?

価値は自分で創り出す

人は、他者(社会や他人)から押しつけられた
「架空の価値観」に振り回されて、自分が不幸だと思いがちである。

だけど、そもそも人間は、意味も目的もなく世界に放り出された
石ころのような存在なのである。

ならばその、価値もない=無意味なニヒリズムの世界」を
まるごと受け入れよう

日常で身に起きるすべてを、そのまま受け入れて、
自分の人生を面白いドラマにする(エンタメ化する)のだ!

そのうえで、心にわき上がる

強く、大きく、豊かになりたい! まっすぐに人生を生きたい!

という「力への意志(宇宙の能動性)」にしたがって、
「神」にも「国家」にも誰にも強制されず

  • 自分で決めて、自分で実行して生きる
  • そうやって、この無価値な世界に、「自分自身で価値を創り出す」のだ!

それ以外に、

私たちが満足して生き、満足して死ねるような、
自分を “全肯定” できる)人生を送ることはできないのではないだろうか!?

「神」や「道徳」といった既存の価値観は、
「神が死んだ世界」に生きる私たちにとって、
もはや生きるべき価値観にはなり得ないのだから...

ニーチェ思想の理解がより深まる「重要キーワード

※01 実存

「現実存在」の略称。「現実の存在」のこと。

 “今、ここに” この世に存在すること。

つまり、実際に “見たり触れたりできる” こと。

※02 実存主義(実存哲学)

実存主義とは、

現実に存在しない、つまり
見たり触れたりできない「意味」とか「本質」とかにこだわるのはやめて

また、見たり触れたりできない「神」や「道徳」を崇拝するのではなく

見たり触れたりできる
現実の存在(実存)だけ” に目を向けようよ」という考え方。

この実存主義の立場をとる「実存哲学」は、

物事の「本質」について考える、既存の王道哲学(本質哲学)に対して、
「NO!」を突きつけた、いわば “反逆の哲学” 

ニーチェは、その新しい哲学の流れを生み出した “先駆者” である。

※03 ニヒリズム虚無主義

人生には目的も意味もなく、世の中の価値や権威にも、
すべて「意味がない」とする考え方の立場。

人間は現実の存在(実存)である、という前提で考えると、

人間(実存的存在)は、意味も目的もなく、
ただ世界に放り出された、まるで石ころのように
「そこにあるだけ」の存在
である。

その石ころが集まって形成された社会や世界にも
当然、意味も目的も、価値(善悪や正邪や優劣など)も存在しない

実存主義を貫いていくと、このニヒリズムに陥る。

ニヒリズムに陥ると、

「世界はすべてが無価値で、人生にも意味は無い」のだから、
「何をしたってムダ」「どうせ失敗するに決まってるさ」

などと、すべてが虚しくなり、人生の充実感や情熱を失ってしまう。

つまり、実存主義(哲学)を “徹底的に” 貫くと、
自分が信じている常識が打ち砕かれて「絶望」に至るのだ。

※04 末人まつじん

なんの目標もなく、トラブルを避けて、
ひたすら時間を潰すだけの人生を送る人間
、のこと。

ニーチェは(19世紀後半以降の)近い未来に、
そういう感じの人たちが大量に現れることを予言した。

ニヒリズム虚無主義)に陥って、すべてが虚しくなり、
人生の充実感や情熱を失ってしまうと、

毎日ひたすら暇を潰して生きるだけの「末人」が増えていくだろう、と。

※05 神は死んだ

「神」とは、 “絶対的真理” の象徴的な表現で、
誰もが正しいと信じる価値観(権威や規範、道徳、倫理など)のこと。

ニーチェが生きていた19世紀後半、
人々の神への信仰心は、既に失われつつあった。

そんな時代にあって、

  • 誰もが正しいと信じていた “絶対的な価値観” なんて、
    いつか必ず壊れてしまう
    もの。
    というか、そもそもそんなものはないんだよ
  • さぁ、本当に大事なものを失ったら、
    みんなどうやって生きていく
    ?」

と、問題提起をする意味で、

ニーチェは「神は死んだ」と、さまざまな著作で繰り返した。

※06 奴隷道徳

強い者に奴隷にされている弱い民族が、空想上で強い者に復讐するために

  • 強いのは悪い、弱いのが善い

という価値観を作り出し、この空想上の “架空の価値観” が、
宗教を通して世界に広まってしまった。

これが道徳の起源である。

つまり、私たちが知る「道徳」の正体とは、
弱者の負け惜しみルサンチマン ※後述が生んだものなのである。

ニーチェは、そうした “歪んだ道徳観” のことを「奴隷道徳」と呼んだ。

奴隷道徳は、嫌なこと、惨めなことに文句を言わずに
受け入れることを美徳
と考える。

特に “キリスト教の道徳” がその典型であるとした。

※07 ルサンチマン

弱者が強者に対して持つ「嫉妬心・恨み」のこと。

敗者・弱者は、自分たちを負かした勝者・強者を見上げて、

  • あいつらは悪いこと、ずるいことをしたから今、笑っていられるんだ」

などと言って、自分をなぐさめる。

このような強い “負け惜しみ” の感情で相手を低め、
自分を正当化する感情
のこと。

ニーチェは、著書『ツァラトゥストラ』の中で、

ルサンチマンとは、無力からする歯ぎしり・復讐心である

などと表現した。

ルサンチマンは、人間のよろこびを感じる力を弱め、
本来の “” を押し殺してしまう元凶といえる。

※08 永遠回帰永劫回帰

ニヒリズムの世界では、すべてに価値はなく、
時間の流れのなかで「変化」は起こりえない。

時間は進んでも進んでも、どこにも近づいていないし、
なにからも離れてはいない。

時間の流れにも意味や目的はなく、
何度も何度も「同じこと」が永遠に繰り返される
のだ...

これがニーチェ “想定” した、

「永遠(永劫)回帰」=「未来永劫、回帰する世界」
=「究極・最悪のニヒリズムの世界」。

永遠回帰は、そんな

  • 超・絶望的な虚無の世界でも、前向きに生きていける哲学を
    私が創り出すのだ!」

という、ニーチェの並々ならぬ強い意志が生み出した、
聖なる方便(フィクション)」である。

※09 超人

永遠にすべてが無価値な、
永遠回帰(究極・最悪のニヒリズムの世界に生きても

前向きに強く生きられる “人間のあり方” 

永遠回帰を乗り越えるには、
今、この瞬間” を力強く肯定して生きよう」とする意志が必要である。

実存(現実に存在するの)は、今、この瞬間” だけ。
その実存のみを重視し、すべてを肯定するのだ。

人間はそうした強い意志で、自らを超克して(困難に打ち克ち乗り越えて)
「超人」を目指さなければならない、

ニーチェは説いた。

超人は、

「こうあるべき」「こうあらねばならない」といった、
他者(他人、社会)から押し付けられた価値観・常識を、
すべてぶち壊し(つまりニヒリズムを完全に受け入れ)たうえで、

ゼロ” の状態から自分で自分だけの価値観を創り出し
誰に従うこともなく、孤独に、強く、気高く生きることができる。

超人的な生を生きる人は、自分で自分を100%肯定できるので、
たとえ永遠に人生が繰り返されても、
喜んでその運命を受け入れることができるのだ。

※10 運命愛

  • ああ幸せ、絶好調、楽しい
  • 平和だなぁ、静かだなぁ、退屈だ」
  • うわぁ最悪、どん底、絶望的 (T_T)...などなど

楽しいこともつらいことも何も起こらない日常も含めて
自分の身に起こる運命をぜ~んぶ愛する

「すべて私の人生にとって必要な要素なんだ」
と、自分の人生を “全肯定” する

そういう生き方・考え方のことをニーチェは、
「運命愛」と呼んだ。

この「運命愛」の態度を持てた人こそが、
「自分の人生を何度でも繰り返そう!」と思えるようになる。

それが、最悪のニヒリズム(=永遠回帰)を受け入れるということ。

そして、「運命愛」の考え方に基づいて、
すべての運命を自らの意志で肯定できる「超人」になるのだ!

超・絶望的な虚無の世界でも、「生きていて良かった~」と
心から思えるような人生にするには、「超人」になるしかない!

ここに至って、ニーチェの思想が、
究極のポジティブ思想であることがわかる。

※11 大いなる正午

ここまでのキーワードを紐解くことで、
ニーチェの思想が、少しは理解できるようになった(と思う ^^;)

とはいえ、理屈である程度はわかっても、本当に理解したとはいえない。

特に、「超人」になって自分で自分だけの価値観を創り出すには、
前提として、

  • 世界には、意味も目的も価値も存在しない」

というニヒリズムを、理屈ではなく
体験を通して理解(体得)する必要がある。

ニーチェは、その「体得(悟り)」につながる体験を、
「大いなる正午」という “イメージ” で表現した。

大いなる正午とは、正午の真上からの強烈な光によって、
物事がすみずみまで照らされ、極端に影が短くなり、
影そのものが消えてしまった状態である。

「影が消えて」なくなると、光で満たされ、明暗のない世界が訪れる。
その光景が、世界から「価値観」がすべてなくなった状況をあらわしている。

「大いなる正午」のイメージ      

この大いなる正午によって訪れた

真っ白な世界” =光に満ちたニヒリズムの世界

を体験してこそ、

そこから自分の足で立ち、誰かに従うことなく
自分で決めた道を歩み出せるのだ。

「超人」への一歩となる道を!

※12 力への意志

でも、「大いなる正午※11」によって、真っ白な
(すべての「価値」や「意味付け」が消え去った)世界を体験した後、
本当に「超人」への一歩を踏み出せるのだろうか?

その疑問についてニーチェは、
力への意志」に身を委ねれば大丈夫だという。

力への意志」とは、

「もっと強く」「もっと大きく高く」「もっと豊かに」・・・

と、自己を無限に拡大させようとする “能動性(勢い)のこと。

ニーチェによれば、生き物だけでなく、すべての存在(万物)
力への意志」が宿っている
という。

この力への意志には、善悪の基準はない。主体性や目的もない

宇宙が拡大し続けているように、
無限の拡大を目指す、絶え間ない “自然な働き(能動性)である。

万物は常に、「生」の充実を求めて、成長しようとしているのだ。

人間も、その成長しようとする “自然な働き” にしたがって
生きることで、生の高揚感(人生の充実感)が得られる。

逆に、他者に押しつけられた常識や、古い価値観に縛られて生きることは、
自分の「生」そのものを否定
することになってしまう。

さあ、(※)をぶち壊して、自由になろう!

  • 他者(他人や社会)から押し付けられた
    「こうあるべき」「こうあらねばならない」といった価値観・常識

世界も自分もぜ~んぶ受け入れて、
あとは「力への意志(自然な能動性)」に身を委ねて生きていくのだ!

そうすれば、石ころのような存在がやがて、
ダイヤモンドの輝き(独自の価値)を放ち始めるだろう...

※あとがき

この記事は、ニーチェに関する書籍や講義から学んだこと(のポイント)を、

自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。

個人的な解釈も入っているので、そのまま鵜呑みにはしないように(笑)。

ニーチェも、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」
と言ってますし(^^;)

もし、ニーチェの思想・考え方に興味を持たれたなら、ひとまず、

あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...

  • ニーチェ関連の書籍は数が多いので、もし選ぶのに迷われるようでしたら、
    まず → この本』から読むと、入っていきやすいかなと思います。
    めちゃ面白く読めます(^^)

あと、図解でわかりやすくまとめられているのは → こちら

それと、ニーチェの著作で必読は、やはり『ツァラトゥストラ』でしょう。
(難解ですが ^^;)

ご参考までに。