思想・パラダイムの引き出し

古今東西の思想・哲学・宗教など(教え、ものの見方・考え方)から学んだことを、 自分用に要約して記録した覚書き(忘備録)集。

「禅」~道元の教え~

道元の教えを読み解くキーワード

悟りとは、仏の境地。

その境地とは、あらゆるスコトーマ(認識の盲点)を外して、
世界をあるがままに受け取ることができるようになること。

そうなるためには、自我自分勝手な解釈やこだわり、執着を捨てる必要がある。

自我を捨て去ることによって、真理の世界に溶け込んでいくのだ。

それこそが、道元思想のキーワードとなる「身心脱落(しんじんだつらく)」。

「身心脱落」すれば、迷い・苦悩・病・死すらも
ありのままに受け容れることができ、何ものにも惑わされない
悠々とした生き方が自ずと見えてくる。

迷いから脱するには?

実は、私たちは最初から悟りの世界の中にいるのである。

それなのに、迷いの中にいると思っている。

しかし、そもそも「悟り」と「迷い」は表裏一体(大もとでは一つ)なのだ。

そのことに気づきさえすれば、悟りを求めてあくせくせず、
迷ったら迷ったでよく、しっかり迷えばよい。

迷いの中にこそ真の悟りがあるんだよ、と道元は説いている。

要は、迷ったら迷うままに、病気になったら病人のままに、
その時その時の状況を受け容れてしっかり生きればいいのだ。

例えば、暑い時にクーラーを入れると、よけい暑く感じることがあるが、
暑さそのものに「なりきる」と、暑さが楽しめるようになったりする。

海水浴は暑いほど楽しい、スキーだって寒いほど楽しいじゃないですか。

そう、抗わずなりきって受け容れると、
しんどい状況でも案外楽しめるものである(^^)

迷いながらもあるがままを見つめて、まず歩み始めること。

そうすると、次の道が自然に見つかってくる。

悟りの世界を完全に理解しようとするのではなく
悟りのほうから自分にやってくるのを待てば良い(^^)v

人間には “” しかない

世の中のすべてのものは常に変化してゆく。

しかも、一瞬一瞬にすべてのものが生まれて消えてゆく(諸行無常)。

時間とは、現在がつながったもの。今(点)の連続。

過去も未来もなく、すべて現在。現在(刹那)しかないのだ。

一瞬一瞬変化するからこそ、悪が消滅し、善が生まれるのである。

釈迦の教えにも、次のような言葉がある。

過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。
未来はまだやって来ない。

あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ

生活全体が “” 

そう考えると、日常生活の一挙手一投足すべてが修行(※)である、

といえる。

  • 修行とは、心身を鍛錬して人格(人間性)を磨くこと。
    鍛錬によって、不純物が取り除かれ心身がキレイな状態になって強くなる。

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)・・・歩き・止まり・坐り・臥す

すべてが「禅(※)」なのである。

  • 身心脱落をして(自我を捨て去って)
    真の自己(仏性)” に目覚めようとすること。そのための修行。

禅堂でひたすら坐禅をしたり、滝に打たれたり、といった
特別なことばかりが修行ではない。

生活そのものが「禅」だから、食事の支度も掃除も
お茶を飲むことだって修行
なのである。

生活そのものを修行にしていくと、悪いことはできなくなり、
自ずと煩悩も薄まって(心が浄化されて)いく。

悪いことをしないように努力するのではなく
自然と悪いことができなくなるのだ(諸悪莫作)。

修行はそのためにある、ともいえる。

そうやって日常すべてが禅修行だととらえ、
今現在の一瞬一瞬をしっかりと生きることが、
身心脱落(自我を捨てること)につながり、

やがて仏の境地を体感できるようになっていく。

仏性を目覚めさせよう

人間の欲望には限りがない。

欲を “ほどほど” にして「足ることを知る」ことが、
幸せになる極意である。(『老子』参照)

物事を複雑にせず、あるがままをシンプルに受け容れよう。

特別なことを求めず、日常の生活全体を修行として心得て、
迷いながらもしっかりと “今を生きていく” のだ。

そうすれば必ず、自分の仏性(元々持っている無限の可能性)
目覚めていくとコミット(確信 ※)しながら...

  • 目的の達成は “既に” 確定している、と確信すること

追記:自分なりに噛み砕いた解釈(イメージ)

人間には元々、仏性が備わっている。

それはいわば「光の玉」。

しかし、自我自分勝手な解釈やこだわり、執着によって、
その「光の玉」は曇り、汚れ、輝きを失ってしまっている。

その本来の輝きを取り戻す(仏性に目覚める)ためには、
光の玉を磨いてキレイにしていかなければならない。

そのために必要なのが「修行」である。

修行とは、光の玉にこびりついた汚れを丹念に磨いていく
という、地道な作業の積み重ねにほかならない。

その行為が「身心脱落」(自我を捨てること)につながる。

一言でいえば修行とは、「心身のお掃除」ともいえよう。

そのために、何も特別なことをする必要はない

日常の暮らしの中で “” に、
目の前にある一つひとつの「やるべきこと(※)」だけに
意識を向け、それを丁寧に丁寧に、ただただ “行う” こと

  • 仕事、家事、勉強、子育て、趣味、遊び、食事、休憩 などなど...

それが修行なのである。

そして、その修行に心がこもって “楽しめる” ようになってこそ
心身はキレイにお掃除浄化・デトックスされていく。

そうやって毎日を過ごしていくことで、
輝きを失った「光の玉」は少しずつ磨かれ、

やがては、まばゆいほどの「命の光」を、最大限に輝かせるのだ...

  • 以上、この追記は、
    個人的にしっくりくる “イメージで” 言い換えたものです。

 

この記事は、道元の教え『正法眼蔵』から学んだこと(ポイント)を、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。

もし、「この考え方、興味深いなぁ、取り入れたいなぁ」
と感じるような内容があれば、

あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...