「茶」の思想
茶の本
新渡戸稲造「武士道」とほぼ同じ時期に英語で出版され、
日本文化のガイドブックとして、世界中で読み継がれている
思想家・岡倉天心による著作『茶の本』。
- 茶道の指南書ではなく、思想書です。
岡倉天心は、その『茶の本』のなかで、茶道を
俗事中の俗事たる茶を飲む行為のような、ごく日常的な営みを、
究極の芸術であり宗教ととらえる “日本独特の世界観”
と紹介する。
これは「日常生活」と「芸術や宗教」を別次元のものと分け隔てる
西欧近代思想と対極にある価値観である。
この価値観を岡倉天心は
「美しくも愚かしいこと(※後述)」
という一言に象徴させた。
それは、
「一抹の夢」にすぎない現実世界の無常を美しいものと観じ、
ほほ笑んで受け入れる、(功利を超越した)無為の境地
である。
茶の思想の根本理念
茶の思想の “根本” には、老荘思想や禅の影響を受けた
①虚(不完全性)、②小さいものの偉大さ
という二つの理念が存在する。
①の「虚」とは、カラッポのこと。
「水差しは中がカラッポだからこそ、水を注ぎ入れることができる」
という老子のたとえ話のように、
カラッポは様々な可能性を呼び込むことができる。
人間は不完全であるからこそ、
完成に向けて “無限の可能性” が開かれているのだ。
そして、②の「小さいものの偉大さ」とは、
「極小の中に宇宙大の真理が宿る」という禅の思想である。
庭の草むしりや蕪の皮むきや茶を入れるなどの
日々の暮らしのなかのすべてが修行であり、
すべての物事には、大きい小さいの区別はないのだ。
つまり、些細(ささい)な日常茶飯事から、
“至上の境地” や “至高の美” を見出すことができるのである。
茶室の美学
茶の美意識は、「茶室」に込められている。
茶室は、カラッポで非対称(アンバランス)の
“かりそめの家” である。(未完の美)
そのうえで、茶室に入るまでの庭や小道から
茶室の中に飾られる掛け軸や季節の花、茶釜の音など、
大自然の営みに思いをはせることができるよう工夫が施される。
茶室は決して自己主張せず、自然との融和を目指す。
その茶室にのぞむ人間(茶人・客人)は、
自己を空しくカラッポにし、
「美しくも愚かしい」茶の世界に身をゆだねる。
そうやって、自己を超越した「自他一体の境地」に至ることこそ、
「茶」が教える芸術の奥義なのである。
一服してお茶でも...
近年の日本は、西洋特にアメリカ的な実力主義、成果主義社会へと
急速に様変わりをし、競争を余儀なくされている。
先が見えない不安が渦巻く、ストレスだらけの現代社会。
この混迷の時代を生き抜くためにも、『茶の本』を通して、
「日本文化」の基層に触れよう。
「日本人」の根底に流れる世界観に立ち戻ろう。
必死に頑張らなきゃいけないときもあるだろうけど、
そんな時こそ、
-
一服してお茶でも啜(すす)ろうではないか。
午後の日差しを浴びて、竹林は照り映え、泉は喜びに沸き立ち、
茶釜からは松風の響きが聞こえてくる。しばらくの間、はかないものを夢み、美しくも愚かしいこと(※)に
思いをめぐらせよう...
※「美しくも愚かしいこと」
ここでいう「愚か」とは、禅における考え方で、
世俗の功利的な価値観から見れば役立たずでありながら、
逆に功利的な尺度ではとらえることのできないような
広大無辺な精神的価値のこと。
「愚かさ」こそが、すべての智の可能性を含んでいる。
色んな知識で自分を満たしてしまうのではなく、
自分をカラッポにしてこそ、世界の真理に溶け込めるのだ。
現実は不条理なことだらけ、
世界は相変わらず混迷の一途をたどるばかり...
そんな状況から一歩退いて、一杯のお茶を啜ろう。
それは愚かしいことのように見えるかもしれないが、
その中にこそ真理が宿っている。
その境地をほほえんで受け入れよう。
そうした文脈から(僕なりに)とらえると、
ここでいう「美しい」は、
利害や執着を離れた「気持ちの良い “純粋な感動” 」である。
つまり、「美しい」と「愚かしい」は一体になる。
「美しくも愚かしいこと」
あらためて言葉にしてみると、
なんと深みのある、心を打つ(美しい)言葉であろうか...
この記事は、『茶の本』の思想から学んだことを、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。
個人的な解釈も入っているので、そのまま鵜呑みにはしないように(笑)。
そもそも人に読んでもらうために書いたものじゃないですし(汗;)
もし、「この茶の思想、興味深いなぁ」と感じられたなら、ひとまず
あなたの(心の)引き出しに、こっそりと閉まっておいて頂ければ...