「正義」について、哲学する
トロッコ問題
いきなりですが、問題(Question)です。
- 暴走したトロッコの先に5人がいて、
そのままトロッコが突っ込むと、5人全員が死んでしまいます。 - でも、あなたが路線を切り替えるレバーを引けば、
5人の命を助けることができます。 - しかし、そうすると今度は、切り替えた線路の先にいる
別の1人にトロッコが突っ込み、本来無関係のはずの人間が
1人犠牲になってしまうのです。
さぁ、あなたならどうしますか?
レバーを引くべきか、そのまま何も操作しないか...
どちらの選択をすることが、「正義」なのでしょうか?
「正義の判断基準」には3つある
まず、「正義」という言葉の意味を確認しておきますね。
-
「正義」とは?
人が従うべき、あるいは、人として行うべき「正しい道理(※)」のこと。
- 道理とは、物事がそうあるべき筋道のこと
もう少しシンプルに、
正義とは、「正しい行為をすること」
と言ってもいいかなと思います。
では、その「正しい行為」をするにあたって、
何を基準にすればいいのでしょうか?
正義の判断基準は、大きく分けると3つに分類できるといいます。
その3つとは、・・・「平等、自由、宗教」
実際に、世界を見渡すと、
- 「平等」を尊重する国・・・共産主義や社会主義国家
- 「自由」を尊重する国・・・共産・社会主義の国を抑圧的だと批判
- 「宗教」を尊重する国・・・自国の伝統的な価値観を絶対的な正しさだとする
その3種類があって、それぞれが自国の正義を訴えて、いがみ合っています。
正義を実現するための、3つの思想
「平等、自由、宗教」...それぞれの正義を実現するためには、
(それぞれにとって)正しい考え・行動のための “指針” が必要になります。
そこで、次のような思想(主義)が生み出されました。
- 「平等の正義」を実現するのは → 功利主義(幸福を重視せよ!)
- 「自由の正義」を実現するのは → 自由主義(自由を重視せよ!)
- 「宗教の正義」を実現するのは → 直観主義(道徳を重視せよ!)
-
功利主義とは?
全員の幸福度を計算し、その合計値が一番大きくなる行動をしなさい!
それが正義だ!という考え方・・・「最大多数の最大幸福」
-
自由主義とは?
人の自由を第一に考える思想。
個人の自由を守る行動をしなさい!それが正義だ!という考え方。
裏を返せば「他人の自由を奪わないかぎり何をしてもいい」とも言える。
-
直観主義とは?
良心にしたがって道徳的な行動をしなさい!
それこそが正義だ!という考え方。直観主義者は、理屈を拒否し、良心を働かせた直観を重視する。
一見、どれも正しい考え方(主義)だと感じますが...
それぞれの主義者たちが、各々の主義に基づいて議論すれば、
対立する(いがみ合う)のもわかる気がします。
3つとも正義の判断基準(思想・考え方)が全然違いますから。
ただ、「正義とはいったい何なのだろうか?」
というテーマを追求していくにあたって、
それら3つの違う考え方が、重要な手がかりになる... かもしれません。
ということで、それぞれの思想・主義について、
もう少し “詳しく” 踏み込んでみましょう。
平等の正義「功利主義」
功利主義は、「幸福主義」と言い換えるとわかりやすいかと思います。
功利主義の理念を表すのに「最大多数の最大幸福」という言葉が
よく使われますが、これは、
なるべく大勢の人間の「幸福度の総量」が最大になる
ような行動をすべき
という意味です。
功利主義者は、その理念に従って、 “みんなの幸福度の合計総量” が
大きくなるような選択を行うことが、正義だと考えます。
例えば、Aさん、Bさん、Cさんの3人の前に、
おにぎりが1個だけあったとします。
Aさんは、飢えて死にそうな状態です。
BさんとCさんは、ほとんど満腹状態です。
この状況で、3人におにぎりをどう分けるのが平等でしょうか?
【均等に(3分の1ずつ)分けた場合】
Aさんの幸福度:33点
Bさんの幸福度:6点
Cさんの幸福度:6点
─────────────
幸福度の合計値:45点
【飢えたAさんに多く(3分の2)を分けた場合】
Aさんの幸福度:66点
Bさんの幸福度:3点
Cさんの幸福度:3点
─────────────
幸福度の合計値:76点
この点数の付け方が正しいかどうかは、さておき(^^;)、
均等に分けるよりも、飢えたAさんに多く分けたほうが、
“みんなの幸福度の合計総量” が大きくなることは、明らかでしょう。
AさんもBさんもCさんも、幸福感を得られますから。
単純に言ってしまえば、功利主義における正義とは、
「みんなが幸福になるような選択をしよう」ということなんですね。
それと、功利主義は「平等の正義」なので、
王様だろうと奴隷だろうと、ひとりの人間として数え、
その幸福や不幸の量を同じものとして扱う
という点も、重要なポイントです。
※功利主義の「幸福度」とは?
功利主義の創始者であるベンサムは、
人が幸福かどうかは、「快楽と苦痛」の度合いによって決まる
と考えました。
【ベンサム式の幸福の定義】
幸福 → 快楽が増加、または、苦痛が減少
不幸 → 快楽が減少、または、苦痛が増加
そして、幸福度を測定するために、
快楽の増加・減少によって “数値化” して計算しようとしました。
これを “ベンサムの快楽計算” と呼んだりします。
功利主義の問題点
ん~、功利主義の考え方は大体わかったけど...
ただ、「幸福度って、客観的に(誰もが納得できるように)計算できるの?」
先ほどの点数付けで、その疑問を感じた方は多いのではないでしょうか?
-
「幸福度の計算」の問題点①
人それぞれの感性や状況に違いがあるのだから、
万人共通の基準となる快楽の単位なんか作れない。
-
「幸福度の計算」の問題点②
快楽は、1を100回足して100にはならない。
- ファーストキスの快楽度は高いが、それ以降のキスの快楽度は ...?
つまり加算の計算式が成立しない。
結局、具体的な計算ができない以上、どうしても主観の域を出ないので、
“ベンサムの快楽計算” を現実的に運用することは、難しいかと。
あと、「身体的な快楽が、本当に幸福だと言えるのか?」
という問題もあります。
ベンサム(功利主義の創始者)の弟子・ミルが、
- 満足した豚であるより、不満足な人間である方がよく、
満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスである方がよい」
という有名な言葉を残していますが、
ソクラテスのような、何よりも「正しいこと」を為そうとする人には、
身体的な快楽や目先の利益が、幸福の尺度にはならないのです。
逆に、身体的な快楽や目先の利益が、幸福だと感じられる人もいます。
つまり、
万人共通の快楽(幸福度)の基準なんて、標準化できない
功利主義の問題点は、このことに集約されるのはないでしょうか。
※パノプティコン・システム
ちなみにベンサムは、
「パノプティコン・システム」という、監視システムも考案しています。
それはいったいどういうものか?...
パノプティコンとは、元々「刑務所」の名前で、
普通の刑務所と違うのは、次の二つです。
- 中心に高い監視塔が立っている。
監視塔にはブラインドが下ろされていて、囚人側から看守の姿は見えない。
- その監視塔の周囲を、ぐるっと囲むように牢屋が並べられている。。
つまり、「中心に監視塔を持つ円形の刑務所」です。
このシステムの特徴は、
- 看守は、中心にある監視塔からすべての牢屋を一望できる
- 囚人は、その監視塔から常に「見られている」(...かもしれない)
この “かもしれない” がポイントなんですね。
これだと、看守はいつも見ていなくてもいい、
いやそれどころか、監視塔に誰もいなくてもいいのです。
見られている “かもしれない” と囚人に思わせればいいわけですから。
(実によく考えられたシステムです)
ベンサムはこのパノプティコンを、最も経済的な刑務所システムだとし、
市民の “幸福度を高める” 施策の一つとして提案しました。
なぜパノプティコンが市民の幸福度を高めるか?、というと、
「見られているかもしれない」と思い込ませることで、
悪事を抑制するシステムだからです。
功利主義の立場でいえば、この監視システムを採用することは、
(悪事が減ることで)人々の苦痛が減少する=幸福度を高める
という意味で、完全に正しいことであり、「正義」だったわけです。
現に、刑務所だけではなく、病院や工場や学校にも
このシステムを導入することを検討していたそうです。
自由の正義「自由主義」
しかし、功利主義者にとって正義であるパノプティコン・システムは、
自由主義者にとっては、「悪」になります。
なぜなら、自由主義にとって最も重要なのは、幸福ではなく
「自由」を守ることだからです。
- 自由主義には、
- 幸福を上位に置いたうえで、自由を尊重する「 “弱い” 自由主義」と、
- 自由を最上位に置く「 “強い” 自由主義」(自由至上主義)
がありますが、ここでは後者②を自由主義と呼ぶことにします。
自由主義(自由至上主義)の考え方をひと言でいうと、こうです。
「自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて」
以上。
とてもシンプルですね(^^)。
自由主義は、幸福よりも何よりも、
人間の自由を絶対的な権利として尊重することが正しいと考えます。
その結果、多くの人が不幸になるとしても、自由を尊重します。
自由主義は、功利主義とはまったく真逆の主義といえるでしょう。
功利主義 → 全体の幸せを重視 → 個人に強制する
自由主義 → 個人の権利を重視 → 個人に強制しない
ですから、パノプティコンなどという、人間の自由を奪うようなシステムは、
自由主義者からすれば、とんでもない “巨悪システム” なわけです。
自由主義の闇と光(問題点と希望)
- 他者に危害を加えないかぎり、好きにやれ!」
自由主義の考え方は、明快でシンプル。
だけど、世の中が「みんなの幸せよりも個人の自由が大事だ」
という考え方に染まってしまうと、
思いやりのない殺伐とした社会になってしまうのでは?
それに、自由主義(自由至上主義)は、
「弱肉強食の競争も、自由にやれ!」という立場なので、
格差が拡大し、弱者が排除されていくのではないか?
そうした問題は、自由主義を基本とする資本主義の現代日本において、
実際に、今まさに現在進行形で起きています。
いや、現代の資本主義は「自由主義」ではなく「新・自由主義」の時代。
頭に「新」がつくんですね。
国家が介入していた功利主義的な「規制・制限」が次々と撤廃され、
自由主義をさらに自由に放任した「新・自由主義」。
「民間でできることは民間に」「国家は責任持ちません」という方針は、
(多少は揺り戻しがありつつも)いまだ続いているようです。
その結果、ますます格差は広がり、
社会全体の幸福度は下がっている、と実感せざるをえません。
- あぁ結局、自由主義も問題点だらけかぁ(T_T)」
とはいえ、自由主義がまったく救いのない思想か?というと、
一概にそうとも言えないと思います。
だって自由主義は、「個人の権利」を重視する一方で、
「他者を助けるも助けないも自由」なのです。
むしろ「好きにしろ!」と自由主義を促進したほうが、強制されない分、
自発的に弱者を助ける人が増える、という可能性に期待できるのでは?
人は本来、「誰かのお役に立てている」と思えたときにこそ、
自らの価値を本当に実感できる生き物ですから。
個人個人が、他者を思いやる “人間の本性(心の豊かさ)” に
目覚めていけば、社会全体の幸福度(=心の豊かさ度)も
向上していくのではないかと思うのです。
希望的観測かもしれませんけど...
宗教の正義「直観主義」
そうした、
人間は誰もが同じ “良心” を本性として、心の奥底に持っていて、
その良心を、理屈ではなく “信じる” ことを前提とする正義の考え方
それが「宗教の正義」です。
ここでいう “宗教” というのは、神様や仏様のみならず、
物質または理性を超えたところにある “何か” を信じていることです。
「宗教の正義」は、理屈で説明できるものではありません。
じゃあ、説明ができないものをどうやって知るの?
→ 理屈を超えた世界(理屈の枠外)にある正義を、直接「観れば」いい。
このような正義の捉え方を「直観主義」と呼びます。
-
【直観】・・・「直ちに観る」
つまり思考という段階を踏まず、正義という概念を直接的に観て取る
例えば、次のような問い
「人を監視するのは、善いことですか?」に対して、
「いや、善くないでしょ!」
と、何の打算もなしに、直接 “瞬間的” に感じ取った正しさ
それが、直観主義における正義です。
その正義は、なにせ説明できない領域にある概念ですから、
考えずに “感覚的” に捉えて、それを “信じる” しかないわけです。
しかし、そもそも
理屈や言葉を超えた枠外の領域に、“正義” なんてものがあるのか?
実はそれが、西洋哲学史の最大のテーマだったりするんですね。
哲人・智者たちはその問題について、2500年もの間、
ず~っと考え続けてきたのです。
直観主義の問題点
そして、その問題の答えは、いまだ見いだせていません。
そもそも、正義とは「無限に正しいもの」のこと。
一方、人間とはあくまでも「有限」の存在にすぎません。
有限のコップで無限の水を掬(すく)い取れるわけがないように、
人間(有限)が、正義(無限)を計り知ることなんか、
最初からできるわけがないのです。
直観主義の最大の問題点は、
「直観による正義こそが絶対的である」と、頑なに “理想” を求めるあまり、
人間の限界・不完全さを許容(許して受け入れようと)しないことにあります。
現に、人類の歴史を遡ると、
直観的な正義を理想とする「直観主義者」の方が、
いわゆる悪人よりもはるかに大勢人を殺しているのです。
「神」が絶対の正義だと信じる者しかり、
自身の政治思想を「正義」だと信じる者しかり...
万単位の “大量虐殺” を引き起こしたのは、いつだって、
そういう人間たちだったのです。
行き過ぎると、宗教的な正義ほど危険な思想はないといえるでしょう。
「完全な正義」はあるのか?
以上、3つの正義について、ざっくりとですが、学んできました。
- 平等の正義 → 功利主義(幸福を重視)
- 自由の正義 → 自由主義(自由を重視)
- 宗教の正義 → 直観主義(直観的な良心・道徳を重視)
人によって賛否・是非など見解が分かれるとは思いますが、
個人的には、
どの正義も、どんな状況においても正しいといえる
「完全な正義」にはなり得ない
そして、
どの正義も、度を過ぎると「悪」になる
ということを “直観的に” (印象として)感じさせられました。
あ、直観は絶対的に正しいかどうかはわからないので、
それらの見解が正しいかどうかもわかりません(笑)。
だとすれば、なおさら、結論はやはりこうです。
- どんな状況でも誰にでも正しい、“完全な正義” には行き着けない。
- 人間はどこまで行っても完成しないから、絶対的な神にはなり得ない。
だから「何が絶対的に正しいか?」なんて、
不完全な人間にわかるわけがない。 - たとえ直観力を身につけて、神の判断を
直に観ることができるようになったとしても、
その判断が、絶対的に正しいかどうかを人間が証明することはできない。
結局は、そんな身もフタもない結論にならざるを得ないんですね(^^;)。
ただ、“完全に近い正義” なら実現できる(?)... かもしれません。
それぞれの主義を、度が過ぎないようにバランスよく、
臨機応変に取り入れれば、
ベストではないけどベターな正義を実現できるのではないかと。
(東洋的な「中庸」の考え方ですね)
例えば、
【「富の再分配」についての方策(概案)】
- ベーシック・インカム(最低限所得保障)を採用。
- 財源は、一定金額以上の高所得者層ほか希望者からの “寄付” 。
- 寄付するかどうかは自由選択。
- 高所得者層以外の受取対象者が、受け取るかどうかも自由選択。
- 寄付した提供者には、何らかのインセンティブ+名誉の授与。
例)所得税免除+称号(イギリスのSirみたいなイメージ) - このインセンティブ+名誉も、受け取るかどうかは自由選択。
これだと、平等な幸福度、自由度、道徳性、
それぞれの正義がバランスよく保たれるのでは?
受取側と提供側の需給バランスが均等になるよう、
どうルール化するかが、大きな課題にはなると思いますが。
- あくまで、考え方の例です。
トロッコ問題の答え
さて、上記の結論を踏まえたうえで、
冒頭の「トロッコ問題」の答え合わせをしましょう。
正解は、・・・
「わかりません!」
どちらかが正しいか、なんて誰にもわかりません。
わかるわけがないのです。
特に「トロッコ問題」のようなジレンマ(※)における、
正しい答え(完全な正義)はありません。
- ある問題に対して2つの選択肢が存在し、
そのどちらを選んでも何らかの不利益がある状態のこと。
ベストもベターもないので、(シャレじゃないけど)「中庸」も通用しません。
- 中庸はあくまで、完全な正しさに近づくための「あり方」ですから。
- な~んだ、じゃあ3つの思想なんて学ぶ必要なかったじゃない。
わかりません!が答えなら、なんにも考えないのと同じじゃん」
そうかもしれないけど...それはちょっと違うかな(?)。
いや、違うんです!(キッパリ)
なんにも考えずに「わかりません!」という結論を出すのと、
色んな視点から「ああでもない、こうでもない」と
頭に汗をかいて考えた末、「わかりません!」という結論が出たのとでは、
その後の “人生への向き合い方” が、180度違ってくるのです。
なぜなら...
無知の知
私たちは毎日、当たり前のように日常を過ごしていますが、
その生活を成り立たせている、この「世界」について、
いったい何を知っているでしょうか?
この広大な宇宙に、地球ができ、そこに生命が誕生し、
人間が現れ、社会を作り、そこで人間関係に悩み、戦争を起こし...
人間が存在する意味って何なのだろうか?
世界はどこに向かおうとしているのか?
そもそも宇宙はなぜ誕生したんだろう?...などなど
こうした “世界の真理” について、まだまだ私たちは、
知らないこと・わからないことだらけじゃないですか。
その、自分は「何も知らない」という無知を自覚してこそ、
「本当のこと(真理)を知りたい!」「学びたい!」
と願う、熱い気持ちが呼び起こされるのです。
「だからまず、自分の “無知を知る” ところから始めよう!」
これが、かの有名な、ソクラテスによる「無知の知」の概念なんですね。
自分の「無知を知る」
↓
己の中に燻(くすぶ)っていた探究心に火がつく
↓
本当のこと(真理)を知りたくなる
↓
深く考えて(思索して)学ぶ … 「哲学する」
↓
また自分の「無知を知る」
↓
「もっと知りたい!もっと学びたい!」
↓
無知を知れば知るほど(哲学すればするほど)、
真理探究への「情熱」が高まっていく
↓
情熱を燃やし続ける=「自分の人生」を
生きられるようになる
↓
本来の自分へと変わっていく(目覚めていく)
↓
延いては、世界も変わっていく
「哲学する」とは?
ソクラテスが、哲学の祖といわれる所以は、
- まず、自分が何も知らない、と認めることから始めよう!」
と「無知の知」を提唱したことにあるのでしょう。
これが「哲学する」ことの原点だと思います。
-
「哲学する」とは、
目の前にあるテーマの「大本(おおもと)の原理・原則」を発見するために、
「それは何か?」「なぜそうなのか?」「じゃあどうすればいいのか?」
といった意味や疑問を問い続け(掘り続け)ていくこと。
その「格闘」のプロセス。(だと思います)
格闘の痕跡
ということで、最後に、
「正義」について、自分なりに「哲学」してみた、
そのプロセス(格闘の痕跡)を記録しておきます。
テーマ:「正義の人」で在るためには?
- そもそも、「正義」の意味とは?、
人が従うべき、あるいは、人として行うべき「正しい道理」のこと。
まぁそれでも大体わかりますが、もう少し意味を掘り下げてみます。
「正しい」とは?、道理にかなっていること。
→「道理」とは?、物事がそうあるべき筋道のこと。
→「あるべき」とは?、そうあるのが当然の。望ましい。
→「当然」とは?、そうなるのが当たり前のこと。
→「当たり前」とは?、誰が考えても、そうであるべきだと思うこと。
ここまで言葉の意味を掘り下げていくと、
「正義」の意味が、かなり “鮮明” になってきますね。
-
正義とは、
誰が考えても「そうであるべきだ(望ましい)」
と思うことに従い、そうした行いをすること。
では、その正義の定義をもっと、掘り下げてみましょう。
- 誰が考えても「そうであるべきだ(望ましい)」と思うことは何か?
この問いの答えとして、
「自由であること」「平等であること」「道徳的であること」
という、3種類に分けられたんですね。
ではこの、3つのキーワードについても、
先程と同じように意味を掘り下げてみましょう。
「自由」とは?、強制されず、自身の本性にしたがうこと。
→「本性」とは?、本来持っている性質のこと。
「平等」とは?、偏りや差別がなく、みな等しいこと
→「差別」とは?、違いを区別すること。
→ つまり、平等とは?、違いを区別しないこと。
「道徳」とは?、善いか悪いかを判断するもの
→「善い」とは?、望ましい状態を広く言う語。
→「望ましい」とは?、そう願う、そうあってほしいこと。
ぞれぞれに掘り下げた意味から、答えをまとめてみると...
自由で、平等で、道徳的であるとは何か?
→ 物事を区別しないで、自分の本性にしたがった「善いこと」をすること。
もう少し噛み砕いて表現してみましょう。それはすなわち、
→「色眼鏡」をはずして、自分の本心にしたがった善いことをする、
(もう少し噛み砕いて)それはすなわち、
→ 曇りなき眼で、自分が納得できる「善いこと」をする
(もう少し “抽象化” していうと)それはすなわち、
→人間が純粋に納得できる「善いこと」
-
誰が考えても、そうであるべきだ(望ましい)と思うことは何か?
→人間が純粋に納得できる「善いこと」
ではでは、
- 人間が純粋に納得できる「善いこと」とは、いったい何でしょうか?
ここまで掘り下げてきた(プロセスも含めた)全内容を踏まえて、
それは何か?を “純粋に” 考えてみると、
こんな答えが出てくるのです。
それは、
-
すべてを、分けへだてなく「愛する」こと。
この概念が、人間誰しもが “純粋” な心根の部分で納得できる、
普遍的な「正義」といえるのではないでしょうか。
終わりなき格闘
でも、とりあえず結論(らしきもの)にたどり着いても、
そこからまだ、疑問は続くのです。
じゃあ、
- すべてを、分けへだてなく「愛する」ためにはどうすればよいか?
→「愛する」とは?、対象(相手)を大切にすること
→「大切にする」とは、重要だと扱うこと。
ここで「はっ」と、“気づき” を得ます。
すべてを愛するためには、まず
他者(他人、社会、世界)に関心を持たなければならない!、と。
こんなふうに、あるテーマについて「問い」を立てて、
言葉の意味を掘り下げていったり、噛み砕いたり、抽象化したりしながら
考えていくうちに、どこかの段階で「気づき」が得られます。
「正義の人」で在るためには?
→ すべてを、分けへだてなく「愛する」こと。
→ そのためには、まず他者に関心を持たなければならない、と。
こうした、無意識の奥底にある “普遍性” を掘り起こして
「気づき」を得ることが、
「哲学する」ことの第一歩、なのかもしれません。
- じゃあ、他者に関心を持つためには、どうすれば...
- なぜ人間には「愛」なんて感情があるの?...
- そもそも「愛」の本質って何?、それに「他者」って何よ?...
「哲学」とは、
思考(脳内)のリングで繰り広げられる、
終わりなき「真理との格闘」である。
だからこそ、面白いのです。 愛し求めていくものとして...
※あとがき
この記事は、『正義の教室』という本を読んで
学んだこと(のほんの一部ですが)を、
自分用にまとめて記録した、覚書き(忘備録)のようなものです。
『正義の教室』では、「正義とは何か?」について、
明快な答え(というか “指針” )が導き出されています。
この記事では、あえてその重要な核心部分は、明記していません。
その答え(指針)は、作者が “魂” を削って導き出したもの。
おそらく “格闘” しまくって。
それを文章だけ引用させてもらったところで、
その魂(エネルギー)は伝わりません。
作者の書いた本文でしか、そのエネルギーの “重み” というか
“インパクト” を感じ取ることはできないと思います。
私たちが目指すべき指針となる、その「重要な答え」を体得したい方は、
『正義の教室』の主人公と一緒に探究しながら、
「哲学する」ことの醍醐味を、存分に味わってみてください。
たぶん「人生観・生き方が変わる!」と思います...